寶椿山 倉常寺
宗派 浄土宗
宗祖 法然上人
住職 第23世 瀧沢孝彦
寶椿山 倉常寺 略史

江戸期の倉常寺

 倉常寺は、岩槻にある檀林寺院浄国寺の末寺であった。大正大学図書館蔵「田舎檀林江新附之寺院覺寫」(貞享4(1687)年)には、浄国寺の末寺が列記されており、新附支配寺院として三ケ寺、新附の末寺九ケ寺があげられている。その中に椿村倉常寺の寺名がある。
 また、「檀林岩付淨國寺志」に「本末清縁」との項があり、「下總國葛飾郡椿村 寶椿山 倉常寺 開山宗連社迎譽玄珠上人 正保四年七月起立 承應三年七月十二日寂」の記述がみえる。
 これらのことから、倉常寺は浄国寺の末寺であり、その開山は、宗蓮社迎誉玄珠上人である。一方、玄珠を源珠と表記する例も散見され、この点はさらに調査を要する。
 浄国寺は、天勝15(1587)年、檀林鴻巣勝願寺の惣誉清巌が岩槻城主の招きによって開山された寺院である。倉常寺の建立、正保4(1647)年は、浄国寺建立から、60年後になる。
 倉常寺が建立された時代は、檀林寺院の法的整備がすすめられた時代であり、幕府の宗教統制の政策もあって、総本山のもと、各地に置かれた檀林寺院の下に、個々の寺が、一つの教団の形に組織化されていく時代であった。
 倉常寺のある椿村は、正保(1644~47年)のころ開発された村である。明治政府が調査編纂した「郡村誌」によれば、椿村は、戸数82、人口462、馬23、水害予備船17、という規模である。倉常寺が建立されたのは、村の開発とほぼ同時と推察できる。
 また、同書によれば、倉常寺の境内は、「東西24間、南北25間、地所600坪、村の中央にあり」とある。
 境内には、主として寛文年間(1661~1673)造立の石仏が22体ある。
 また、歴代住職の墓石があるが、開山上人の墓塔もふくめて、欠損の累代墓もある。

近現代の倉常寺

 明治29(1896)年、第19世住職中島霊真上人のもとに近隣の荒木家から荒木孝三が入山、得度する。荒木はのちに東京青山梅窓院に住持する中島真孝上人である。昭和7(1931)年、中島霊真上人遷化にともない、中島真孝上人が倉常寺20世住職に就任した。
 それに先立つ昭和3(1928)年、中島真孝上人と厚誼のあった、慶応義塾大学教授田中木叉上人が倉常寺に住み寺務を務めた。田中上人は、宗門教育界にあって多忙を極めた中島上人に代わり、倉常寺を護持した。田中上人は、英文学の学者である一方、近代浄土宗に新風を吹き込んだ、山崎弁栄上人の主宰する光明会の重鎮であった。
 田中上人は、昭和32(1957)年までの30年間のうち、断続的に倉常寺に住持した。昭和33(1958)年、倉常寺21世に中島真哉上人就任。平成3(1991)年、中島真哉上人遷化により、中島真成上人が倉常寺22世住職に就任した。平成23年、中島真成上人の後継として、梅窓院にて修学研鑽を経た瀧沢孝彦上人が晋山した。

(平成23年8月 青山梅窓院 広報部長 川添崇祐上人記)

普山式の様子
倉常寺外観