開山は、石塔によると迎譽上人で寛文7年(1667)という紀年がありますから、この寺が建てられたのは、その年より相当古いものと思われます。
この寺の参道には、右側に10基、左側に11基、合計22基の石仏が建てられていて、その建立の時期もおよそ寛文年間で、いずれも規模結構からいっても、また彫刻の技術からいっても特に優れており、このような美術的価値の高い多くの石仏群は、埼玉県内でも非常に珍しいものといえます。ことに寛文年間という短い期間内に、このような農村地区に多くの石仏が建立されたことは当時この寺の宗教活動が、並々でなかったことがわかります。
○如意輪観音(にょいりんかんのん)
この寺の参道には、右側に10基、左側に11基、合計22基の石仏が建てられていて、その建立の時期もおよそ寛文年間で、いずれも規模結構からいっても、また彫刻の技術からいっても特に優れており、このような美術的価値の高い多くの石仏群は、埼玉県内でも非常に珍しいものといえます。ことに寛文年間という短い期間内に、このような農村地区に多くの石仏が建立されたことは当時この寺の宗教活動が、並々でなかったことがわかります。
○如意輪観音(にょいりんかんのん)
宝珠を持って、人々の願いをお聞きなさるといわれています。各地の寺院や墓地の入口にこの石仏が建てられているのを見ることができます。
お姿は慈悲深いお顔で、半跏趺座(はんかふざ)といって、片足を他の足の股の上に組み、右手(向って左手)のひじをひざに当て、掌を軽くほほにあてられていて、人々の願事について深い冥想をなさっているように見受けられます。
お姿は慈悲深いお顔で、半跏趺座(はんかふざ)といって、片足を他の足の股の上に組み、右手(向って左手)のひじをひざに当て、掌を軽くほほにあてられていて、人々の願事について深い冥想をなさっているように見受けられます。
○阿弥陀如来
西方浄土にいる慈悲深い仏で、その名を唱えますと、すべての人間を極楽浄土に救済するといわれます。この石仏は、最も優れた彫刻の手法がみられて美しく、台座も他の石仏に比して一段と高く、この寺の信仰の本仏です。
掌は開いて前に向け、右手は上を、左手は下を指しております。寛文六年の建立です。
掌は開いて前に向け、右手は上を、左手は下を指しております。寛文六年の建立です。
○九品仏
みな阿弥陀様ですが、浄土に往生するのにそのものの行業の優劣によって、9等の階級に分ちます。それは上品、中品、下品の三階に分け、そのおのおのに上生、中生、下生の三級をあて、石仏の最上部に記してあります。(解読できる文字だけを記してあります。)
みな阿弥陀様ですが、浄土に往生するのにそのものの行業の優劣によって、9等の階級に分ちます。それは上品、中品、下品の三階に分け、そのおのおのに上生、中生、下生の三級をあて、石仏の最上部に記してあります。(解読できる文字だけを記してあります。)
・下品下生 千日供養 大塚村22人、
○○村22人
・下品中生 ○○○村23人
・下品上生 立野村中○○○妻女
・中品下生 千日供養
西金野井村38人
寛文6年7月
・中品中生 23人
・中品上生
・上品下生 38人
・上品中生 倉常村中18人
・上品上生 下椿村25人
○○村22人
・下品中生 ○○○村23人
・下品上生 立野村中○○○妻女
・中品下生 千日供養
西金野井村38人
寛文6年7月
・中品中生 23人
・中品上生
・上品下生 38人
・上品中生 倉常村中18人
・上品上生 下椿村25人
(昭和55年6月掲載)
○観世音菩薩
観世音6基が建てられています。観世音(観音)は、世の中の人の願い事(音)を観じされて人々を救済してくださる菩薩で、六観音に分けられています。
()は推定を示す。
・(如意輪観音)
・(准てい観音)38人
・十一面観音 宝文6年6月 金野井村中38人 法界64人
・馬頭観音 宝珠花村26人
・千手観音 千日供養 並塚33人
・正(聖)観音 寛文6年7月諸願成就
観世音6基が建てられています。観世音(観音)は、世の中の人の願い事(音)を観じされて人々を救済してくださる菩薩で、六観音に分けられています。
()は推定を示す。
・(如意輪観音)
・(准てい観音)38人
・十一面観音 宝文6年6月 金野井村中38人 法界64人
・馬頭観音 宝珠花村26人
・千手観音 千日供養 並塚33人
・正(聖)観音 寛文6年7月諸願成就
○地蔵菩薩
地蔵菩薩が5基あります。地蔵は6道(人々が前世の宿業によっておもむき住む6種の迷いの世界、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上の六界)の世界にあって苦悩する人々を教化する悲願をもっております。そのお顔は、いかにも優しく、人々を救済なさるお姿です。六地蔵と普通申しますが、どういう理由か当寺には5基だけしかございません。
六地蔵は普通、檀陀地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障地蔵、日光地蔵をいいますが、当寺の地蔵は次のとおりで、密教の地蔵かとも思われます。
○は判読できない文字
・悲(願)地蔵 幸手領佐々エ門村4人
・(与)願地蔵 千日供養 寛文6年10月 中椿村中42人
・(天賀)地蔵 千日供養 寛文6年7月 木崎村21人
・(○蓮)地蔵 寛文6年○月屏風村32人
・(○王)地蔵 千日供養 寛文6年7月 中椿26人結集 →この石仏だけ参道の左側にあります。
地蔵菩薩が5基あります。地蔵は6道(人々が前世の宿業によっておもむき住む6種の迷いの世界、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上の六界)の世界にあって苦悩する人々を教化する悲願をもっております。そのお顔は、いかにも優しく、人々を救済なさるお姿です。六地蔵と普通申しますが、どういう理由か当寺には5基だけしかございません。
六地蔵は普通、檀陀地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障地蔵、日光地蔵をいいますが、当寺の地蔵は次のとおりで、密教の地蔵かとも思われます。
○は判読できない文字
・悲(願)地蔵 幸手領佐々エ門村4人
・(与)願地蔵 千日供養 寛文6年10月 中椿村中42人
・(天賀)地蔵 千日供養 寛文6年7月 木崎村21人
・(○蓮)地蔵 寛文6年○月屏風村32人
・(○王)地蔵 千日供養 寛文6年7月 中椿26人結集 →この石仏だけ参道の左側にあります。
○仙元大菩薩
石を積んで小高くし、台座の上に上方を山型にした石塔に、肉太の字で彫ってあります。
この仙元さまは各地にある浅間信仰と同じで、富士山を対象にする信仰で、富士講を組織し毎年代表者が登山し、富士宮市に鎮座する本宮浅間神社に参詣しました。そして毎年7月1日下椿の講中のものが寄合い、祝宴を催します。これは、富士山の雪がとけて水となり、各地で田植えができるという農業信仰と関係があるでしょう。
また、このころ、前1か年の間に生れた乳児を参拝させ、無事健康に育つことを祈願し、女児は特に富士山の祭神の木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)「桜の花のように美しい女神」にお祈りして、美女になるようにとお願いする仙元さま詣りは各地にあります。
この仙元さまは各地にある浅間信仰と同じで、富士山を対象にする信仰で、富士講を組織し毎年代表者が登山し、富士宮市に鎮座する本宮浅間神社に参詣しました。そして毎年7月1日下椿の講中のものが寄合い、祝宴を催します。これは、富士山の雪がとけて水となり、各地で田植えができるという農業信仰と関係があるでしょう。
また、このころ、前1か年の間に生れた乳児を参拝させ、無事健康に育つことを祈願し、女児は特に富士山の祭神の木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)「桜の花のように美しい女神」にお祈りして、美女になるようにとお願いする仙元さま詣りは各地にあります。
(昭和55年7月掲載)
○二十三夜塔
天保2年(1831)8月倉常寺13世文敬 講中
この塔は、3層に積み重ねた台座の上にあって、上方はややとがっております。
二十三夜講は月待ちの行事で、女人を主とした行事です。陰暦23日の夜月の出るのを祭る行事で、講中がこの倉常寺に集まり、おこもりをして、月の出るのを拝めば子宝に恵まれ、安産するといわれておりました。 倉常寺には石塔まであるので、これらの仏教行事があったのであろうと思われます。この二十三夜講は古くから行われた信仰で石塔も各所に見受けられます。
この塔は、3層に積み重ねた台座の上にあって、上方はややとがっております。
二十三夜講は月待ちの行事で、女人を主とした行事です。陰暦23日の夜月の出るのを祭る行事で、講中がこの倉常寺に集まり、おこもりをして、月の出るのを拝めば子宝に恵まれ、安産するといわれておりました。 倉常寺には石塔まであるので、これらの仏教行事があったのであろうと思われます。この二十三夜講は古くから行われた信仰で石塔も各所に見受けられます。
○聖徳太子
天保10年(1839) 椿
聖徳太子は、日本の釈迦といわれるほど仏教への信仰があつかったため、聖徳太子への尊崇は太子講となり、石塔も各所で見受けられます。
太子講はその後太子が、法隆寺やその他多くの寺院を建てたので、建築に関係する人々が毎年1月15日、太子講として各種の行事を行うようになりました。
天保10年(1839) 椿
聖徳太子は、日本の釈迦といわれるほど仏教への信仰があつかったため、聖徳太子への尊崇は太子講となり、石塔も各所で見受けられます。
太子講はその後太子が、法隆寺やその他多くの寺院を建てたので、建築に関係する人々が毎年1月15日、太子講として各種の行事を行うようになりました。
○青面金剛(しょうめんこんごう)
宝暦13年(1763)12月 下総国庄内領椿村
青面金剛の石塔は角塔で、文字の上に梵字を冠し、台座には見ざる、言わざる、聞かざるの姿の三猿を彫刻してあります。
青面金剛は民間の庚申講の主神であります。
宝暦13年(1763)12月 下総国庄内領椿村
青面金剛の石塔は角塔で、文字の上に梵字を冠し、台座には見ざる、言わざる、聞かざるの姿の三猿を彫刻してあります。
青面金剛は民間の庚申講の主神であります。
○千手観音供養塔
文政10年(1827)正月吉日 下総国葛飾郡下椿村
千手観音の石塔は角石塔に浮彫してあり蓮華の上に座し、少しくぼんで彫ってあり、台座には右の文字が彫ってあります。
千手観音は前に記したように、六観音の1つで人々を救済するために千の手と、千の目を持つことを念じ、また円満な知恵と諸願成就、出産の安穏をつかさどり、特に地獄の苦悩を救うといいます。
文政10年(1827)正月吉日 下総国葛飾郡下椿村
千手観音の石塔は角石塔に浮彫してあり蓮華の上に座し、少しくぼんで彫ってあり、台座には右の文字が彫ってあります。
千手観音は前に記したように、六観音の1つで人々を救済するために千の手と、千の目を持つことを念じ、また円満な知恵と諸願成就、出産の安穏をつかさどり、特に地獄の苦悩を救うといいます。
○庚申
嘉永6年(1853)下椿村下組中
庚申塔は自然石の台座の上に、自然石の上部をとがらせたものに大きく肉太に書いてあります。(これは、他所から移したものといわれております)
さらに、寺院には次のものがあります。
嘉永6年(1853)下椿村下組中
庚申塔は自然石の台座の上に、自然石の上部をとがらせたものに大きく肉太に書いてあります。(これは、他所から移したものといわれております)
さらに、寺院には次のものがあります。
・弁天さま
庭の東部にあって、西方を向き社殿風です。弁天は弁財天といい、女性で琵琶を抱え、お顔が美しく、施福の神(インドの神)とされています。
庭の東部にあって、西方を向き社殿風です。弁天は弁財天といい、女性で琵琶を抱え、お顔が美しく、施福の神(インドの神)とされています。
○二平墓
寺庭の西側にあります。昔、二平というものがおり、家が貧しく母が長く病気のため、乞食までして母に孝行したものといわれています。
○千日供養
倉常寺の石仏群には、千日供養という文字が読めますが、恐らく全部の石仏にそのように彫刻されているものと考えられます。
さて、この石仏群は皆優れた技術によって造られたもので、資金的に考えて莫大な金額を必要としたものでしょう。しかも、これら22基の石仏を寛文6年を中心とする短い期間内に造立するということは、当時としても非常な信仰心がなければできないことでしょう。
これらの石仏は、当時の住職であった迎譽上人の発願で、これに下椿村を中心とした、下総国庄内領・武蔵野国幸手領の遠近村々の信仰心の深い人々が、力を合わせて建てられたものであることは、前回までの記事によってわかります。
この信仰心の中心となったものは、千日供養という民間信仰にあったことに相違ありません。この寺の千日供養が、いかなる内容の行事であったかは知る由もありませんが、木塚治雄著「さしまの民俗」によると、現在も茨城県猿島郡のある寺では「十夜法要」のことが記され、いかにも千日法要を思わせるものがあります。
それによりますと、わが国では戦国時代のころ、世の中は混乱し、人々は苦悩の日々を送るようになりました。このとき鎌倉 光明寺(浄土宗 大本山)九世観譽祐崇上人(かんよゆうそう)の教えによって、お十夜念仏という行事が行われるようになりました。これは毎年陰暦10月6日から10日間、行にたえられる信仰厚い人が参加しました。その間は寺に籠り、朝・昼・暮・初夜・後夜の5回僧の読経に合わせて念仏が行われます。1回の行で2度の双盤(大きなドラのようなものを叩く行事)が行われますので、1日で10度双盤となり、10日の法要では100回の双盤となり、この行に10年間参加すると1000回双盤となり、お亡くなりになるときは院号の戒名がいただけ、極楽往生間違いなしということが保証されるとのことです。この行事には檀家の有志が色々と協力され、本人はただ米2升だけを持参すればよいとされていました。
倉常寺では、この行事を千日供養といい、遠近村々の信徒たちがこの行に参加し、供養が終わればおのおの寄付をして、村ごとに石仏を寄進し、その際、人々の行業により、九品の階級が石仏の上部に記されたもののようです。当時の人々の信仰心がいかに厚く、極楽往生を念願する心が深かったかがわかります。
倉常寺の石仏群には、千日供養という文字が読めますが、恐らく全部の石仏にそのように彫刻されているものと考えられます。
さて、この石仏群は皆優れた技術によって造られたもので、資金的に考えて莫大な金額を必要としたものでしょう。しかも、これら22基の石仏を寛文6年を中心とする短い期間内に造立するということは、当時としても非常な信仰心がなければできないことでしょう。
これらの石仏は、当時の住職であった迎譽上人の発願で、これに下椿村を中心とした、下総国庄内領・武蔵野国幸手領の遠近村々の信仰心の深い人々が、力を合わせて建てられたものであることは、前回までの記事によってわかります。
この信仰心の中心となったものは、千日供養という民間信仰にあったことに相違ありません。この寺の千日供養が、いかなる内容の行事であったかは知る由もありませんが、木塚治雄著「さしまの民俗」によると、現在も茨城県猿島郡のある寺では「十夜法要」のことが記され、いかにも千日法要を思わせるものがあります。
それによりますと、わが国では戦国時代のころ、世の中は混乱し、人々は苦悩の日々を送るようになりました。このとき鎌倉 光明寺(浄土宗 大本山)九世観譽祐崇上人(かんよゆうそう)の教えによって、お十夜念仏という行事が行われるようになりました。これは毎年陰暦10月6日から10日間、行にたえられる信仰厚い人が参加しました。その間は寺に籠り、朝・昼・暮・初夜・後夜の5回僧の読経に合わせて念仏が行われます。1回の行で2度の双盤(大きなドラのようなものを叩く行事)が行われますので、1日で10度双盤となり、10日の法要では100回の双盤となり、この行に10年間参加すると1000回双盤となり、お亡くなりになるときは院号の戒名がいただけ、極楽往生間違いなしということが保証されるとのことです。この行事には檀家の有志が色々と協力され、本人はただ米2升だけを持参すればよいとされていました。
倉常寺では、この行事を千日供養といい、遠近村々の信徒たちがこの行に参加し、供養が終わればおのおの寄付をして、村ごとに石仏を寄進し、その際、人々の行業により、九品の階級が石仏の上部に記されたもののようです。当時の人々の信仰心がいかに厚く、極楽往生を念願する心が深かったかがわかります。
(昭和54年9月掲載)
参考資料 郷土史料第十八集『さんぽ道』 編集 杉戸町文化財専門委員会